それぞれの役割

今日、僕が所属しているグループで運動会を行いました。僕は運営側というよりはメンバーとして参加させていただ来ました。そこで、感じたことを共有したいと思います。

組織として存在する様々な集まりがありますが、よく知られているものには会社がありますよね。その中でもプロジェクトによって分かれていたり、部署などで分かれていたりします。その中で会社の部署とかになると部長とか課長とかという組織上任命された役割の人がいます。それはそれで大事です。しかし、実は目に見えない役割というものも存在するのです。いわゆる影のリーダーとかいうやつです。これは意識するしないにかかわらず存在していることになります。物事をうまく進めようとすれば、組織上のリーダーと影でリーダー的に物事を進めていく人とが必要になるのです。

このことは昔読んだある本に「リーダーシップは力(権力)を持たなければいけない」というようなことがテーマで語られていた中に記述されていたと思います。どちらも力を持っているというような話だったかと思うのですが、そこからリーダーだけでなく、それぞれの役割があり、表面上の役割と物事をすすめるための影の(内面的な)役割とがあると理解しました。

それを今日の運動会で感じたのです。いろいろと準備をしてくれて進行して倉田係の人たちがいました。その人たちには本当に感謝しかありません。そして、僕がやろうとするとなかなか難しいかなぁというかできないのではなく力が非常に必要になると思うのです。その意味でとても感謝しているのですが、そこに参加していた人たちもそれぞれ色々な役割があり、特に割り振られていたわけではないですが、いろいろなフォローに回ったりする人がいました。はたまた、声を掛けあったり、みんなが楽しくやれるように応援したり。

なんだかいいですよね。これは、運動会だけではなく仕事でのプロジェクトでも同じだなあと感じました。フォローすべきところではフォローして、引くところでは引き、出るところでは出るというのは大事ですし、周りを見てうまくいかなさそうなところを声をかけて、うまく行かないと思ったら声を上げて助けを呼び、なんとかプロジェクトを成功に導く。

これはリーダーだけの力ではなく、みんながそれぞれの役割を担うことによって成り立つんだと思った次第です。そこには優しさ、ルール、厳しさ、柔軟さが必要になってくると思うんです。

さて、あなたはどう考えますか?

 

いろいろあってそれでよい

タイトルの「いろいろあってそれでよい」とは、僕が感じていて生活や活動の基盤にしたいと思っている思いです。個人のことを思えば、人生いろいろありますよね。悲しいことも楽しいことも。それがあって人生は輝きを放つと思っています。それがその人の味を作り出していく。そして少し考える範囲を広げて世間一般についてもそう思うのです。

しかし、そこには個人で考えた時には出てこなかった問題も多く内在し、それの一部が表に出ている状況が今のネットの世界だったり、社会だったりするのではないかなぁと感じる時があります。

先日、ネットで目にしたのは人種差別的な発言があるとか発達障害の話とか。自分の子供も発達障害であると診断されているし、ましてやそのように診断されていない兄弟もそうなんではないかと感じる今日このごろ。発達障害については個人的に目につきやすい内容です。また、なぜだか人種差別。今のこのご時世にとも思うのですが、もしかしたら多様性が目立ってきた今だからこそなのかもしれません。

多様性が容認というか認められつつある昨今の日本の社会と、ネットの普及に伴って発言がしやすくなってきている状況が合わさると人種差別的な発言も大きく広がることになるのかもしれません。昔は小さな村の中という閉じた世界だったのが、もっと広い世界になった感じでしょうか?

人間が暮らす状況は多様性が認められたり、ネットで広い世界にアクセスできたりとバージョンアップして新しい環境になりつつあると感じています。それに比べて僕達人間は昔のままの状態なのではないでしょうか?人にも多様性があるので、今の状況に対応できる人もいますが、対応できない人は今までと同じように本来は個としてみるべきところを個を見るときに個が所属しているグループを投影して見てしまう傾向があるように感じます。ある意味ではそういう部分もあるのかもしれませんが、それよりも個としてみてあげたほうが断然よい結果が生まれると思うのです。

多様性が認められるということは、発達障害を持った人のことも理解してもらえる場が少しずつできているのではないかと思う部分です。もしかしたら、間違っているのかもしれません。しかし、ネットで発達障害の情報をよく目にするようになったのは事実です。

このような状況を見るにあたり、いろいろな人と力を合わせて社会を作っていくとそれは面白いものが生まれるのではないかと思いが湧き上がってきます。国もいろいろ、人種もいろいろ、考え方もいろいろ。それでいいと思うのです。お互いがお互いを認めてあげれたら、良い社会になっていくのではないかと思うのです。

なかなか難しい部分もありますが、よい世の中になったらいいなぁと感じています。

 

自分がどこに向かっているかを知るために

あなたは、目標があるだろうか?

目標を立てることはとても大事だと思う。しかし、それが絶対でないことは、いろいろな書物や意見があり、知っていることだと思う。

では、目標を立てる必要はあるのだろうか。それともないのだろうか。

実は、絶対ではないことを前提にすると、目標を立てたほうが自分がどこに進んでいるかを明確にすることができるので、より良いのではないかと思う。ではどれぐらい先にするのがいいのか。それも人それぞれ。僕が読んだ本でとても好きな本の中には、まず葬式の時にどのように言われたいかということを4つの分野で考えるとよいと書かれていた。

これが長期目標であり、次に設定するのは、中期目標。大体10年から7年ぐらいの目標を立てるといいのではないだろうか。死に向かう途中のあるポイントでは、どのようなっていると最終的な目標に達成できるかを考えることができるからだ。

そして、1年スパンの短期目標。1ヶ月、1周間、1日とやることを明確にしていくと、1日が充実したものになるような気がする。

こう読んでみると、長期目標から短期目標、1日の実施項目まで落とし込めば、どこに進んでいるかを明確にすることができ、いま自分が進んでいる道はどこなのかを知る良いきっかけとなることができることがお分かりいただけるだろうか。

絶対ではなくても、目標を立てたほうがよい理由はここにある。

子供の世界と大人の世界の違いを感じるとき

僕は子供の時からドラえもんが好きで大人になった今でもドラえもんを特に映画をよく見ます。その映画の中でもこの記事のタイトルのように子供と大人の世界の境界線を垣間見える時があるのです。

それは、作っている人の意図も往々にしてあるのですが、それにとどまることなく実際にそうなんだろうなと思う次第です。そこで本日はどの映画のどの部分で感じるのかということを大人になった僕の視点で書いてみたいと思います。

1.子供の世界

子供の世界とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。これはドラえもんの映画全般に言えることですが、子供であるのび太たちは大人に比べて柔軟にどんな世界でも受け入れてそこで全力で生きていこうとする部分が子供の世界だなぁと思うところです。

お話の中では現実世界の大人としてのび太のママやパパなど、登場人物の親が出てきます。現実の親よりも柔軟性はあると思うのですが、やはり大人というものを演じる部分において柔軟性、特に特異な物事が起きた時には柔軟性がないものであると描かれているような気がします。悲しいかな大人は生きてきた分だけ現実に晒されており、自分の無力さやいつのまにか自分の中で構築された普通というとても変な概念ができてしまうのです。すべての人がというわけではありませんが多くの人がそのような状態になっているのではないかと推測します。

しかし、ここではそれは悪いこととして表現しているのではなく単にそのような状態になっているのだということが言いたいのです。対して子供は先程も書きましたが、非常に柔軟です。話の中では友人となった人が困っている場合には友達として一人の人間として助けることが当たり前として行動する部分なんかは見習わなければいけないなと思うところです。

2.ドラえもんの映画の中で子どもと大人の壁を感じるシーン

この記事を書くきっかけとなったシーンがあります。それは、のび太の恐竜2006の最後の部分。のび太たち5人がタイムマシンで帰ってきてのび太の部屋を出てジャイアン・スネ夫・静香ちゃんが玄関から帰るところにのび太のママが声をかけるシーンです。

のび太のママは、のび太たちに問いかけます。「大勢で何していたの?」と。

のび太は振り返り、「ちょっと。」と応えるのです。過去の世界で経験してきたことを友人と分かち合い、その余韻にひたっているところに大人は入っていけないのです。そして、このシーンを見るたびに子供だった自分が大人になり、その子供の世界をもう2度と経験することもできないし、子どもたちと共有することもできないだろうと実感するのです。

3.大人の世界はつまらないのか

僕は、これを考えるたびに大人の世界も捨てたものではないと考えられるようになってきました。そして、大人の世界はそれなりに面白いとも感じます。子供の頃感じていた楽しかったことが大人になって少し目先や方向が変わっただけで本質的にはほとんど何も変わらないということに気づいたのです。

ただ、感じることやできることできないことは大人と子どもとでは違います。できる範囲の中でそれぞれが感じ成長していけばそれでいいのではないかと思うのです。

大人もまだまだ成長途中にあるのだと思うと子供の頃のワクワク感が戻ってくるような気がして個人的にはモチベーションが上がってきます。

このように感じながら、子供の世界に入れないことや共有しにくいことは理解しつつ、できる範囲で子どもたちやその世界のことを理解し、応援していきたいと思います。