今日僕の人生に入ってきた本ーみんなが味方になるすごい秘密ー

いろいろなところで書いているのでここでも書いたかどうか忘れてしまいましたが、僕は電子書籍を読むようになりました。ひとつの理由は、電子書籍だとセールをしている時があって、安く手に入ることがあります。結構掘り出し物あるんですよ。大体そういう時に買うんですが、今日もそんなセールをしていた本の中から一つとても印象深い本を購入したので、紹介したいと思います。

この記事では、まず本に対する僕の考えを書いてから実際にどんな本と出会ったかというお話をします。

1.本に対する考え方

本との出会いは人との出会いに似ています。その時々で必要な本がやってくるんですね。本屋に行ってもその時の自分に合った本が目に飛び込んでくるなんてこともザラですし、購入したい本を買いにいって別の本を買ってくるということもありますが、それなんて本が僕に語りかけていると思うんです。そして、その時を逃すとなかなか手に入らないなんてこともありますよね。

そう考えるようになってからはできるだけその時の感性で本を購入するようにしています。それは、電子書籍を読むようになってからも同じです。電子書籍ならいつでも購入できそうですが、ほしい本リストに入れたらそれで満足ではないですが、時が過ぎていって結局購入まで至らないというのはよくある話。結局その本とは縁がなかったということになりそうな感じです。

そう考えると本屋に行くのが楽しくてしょうがないですし、電子書籍のサイトを見るのもとてもおもしろいです。そんな本に対する思いを持ちながら生活していますが、何気なくタイトルで買った本で目次を見たらとてもおもしろいし、今まで読んできた中でも個人的に好きな内容の本と似ているような本と今日は出会ってしまったので、ここに紹介します。

2.「みんなが味方になるすごい秘密」

これがセールで売ってたんですね。まあ、どれだけのセールかは言いませんが、購入しました。なんだかタイトルだけ見たらちょっと行動の指針を書いてある本かと思ったんですが、目次を見てちょっとあたりかもと思ってしまいました。

そうそう、セール中の本の僕の購入ルールですが、基本的には内容を見ません。タイトルと本の紹介ぐらいで購入するかどうするか決めます。なので、当たり外れがあるのはご愛嬌と思っています。まあ、セールですからお得ですし、こんな時じゃないと買わないかと思うような本も購入対象になります。ちょっとした闇鍋気分。ルーレット気分。ドキドキ感。なんか楽しいくなってくるんですよね。この購入方法。買った時はイマイチでもきっと後で肥やしになりますからね。

さて、そんな感じで今回の本も購入して前述のような感じでワクワクドキドキしてしまう内容ぽいなと思った次第です。

実はまだ内容読んでいないんですけど、このワクワクドキドキとあたった感をお伝えしたくてつい書いてしまいました。

あなたもぜひこの本手にとって読んでみてください。あなたなりの感じ方があると思います。僕はこれからここに書かれている内容を咀嚼しながら読書を楽しむことにします。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

 

自己責任という生き方

先日、自己責任という言葉は使うべきではないなぁという記事を書きました。

参考:自己責任ということは何を意味するのか

よくよく考えてみてこれは他人に使う場合のことではないかと思うようになりました。

では、他人に対して使うのはあまりにも愛がないとは言え、自分に対して使う場合にはどうなのだろうかということを考えてみてみたいと思います。

 

1.自己責任という生き方

自己責任という生き方をしてみようと考えてみた時に、言葉の通り自分の行動に責任を持つということです。つまりはその行動によって起こった事象は自分が管理しているということです。いいことも悪いことも自分がすべて受け止めるということ。

では、もっと深く考えてみて、自己責任を持つにはどうするべきなのかといえば、目標を持つこと、ビジョンを持つこと、将来に希望を持つことではないかと思うのです。

いくら自己責任だからといって自分が他人に悪影響を与えてよいかといえばそうではないと僕は考えます。せっかくならみんなが幸せな世の中にしたい。であれば、その世の中を幸せにしたいという目標、ビジョン、希望を実現するためにはどう行動していくのかを決めていく。いつもの自分の行動規範にまで落とし込んで自分が自然に振る舞えるように心に刻みこむ。それが自己責任という生き方をすることに繋がるのではないかと思うのです。

ここで書いたことはあくまでも例ですので、あなたが目指したい目標などがあればそれに向かって生きていければいいのではないかと思います。

2.人生に目標を持つことの重要性

これは実は人生をより良く生きることに繋がることは読んでいただければ解ると思います。ただ、これだけではなかなか自己責任ということを体現できるかといえばそうではないと個人的に感じているのです。こう書いている僕もまだまだ全然です。入り口に立っているのかどうかも怪しいです。なぜなら、ここまで出来るようになるには精神的な成長、成熟した精神性というものが必要になってくるだろうと思えるからです。

しかし、できないというわけではありません。それに向かって、目指して訓練していけばそこの道にたどり着けるように成っているのです。動きさえすれば目指しさえすれば。ここで人間の悲しい性ですが、その時の自分の精神性がそれを受け取れるかどうかによって受け取ろうとするのか取りこぼしてしまうのかは決まります。チャンスは何度もあるので落胆することはありません。ただその時ではなかったというだけのこと。

そこで、人生に目標を持つということはどのような意味においてもとても重要であると思うのです。

それがあって、自己責任において行動していくことができるようになり、人生が形作られていくのです。もし、つらいことや悲しいことがあったとしてもそこから何か学び取り他の人に良い影響を与えていければそれは人生の肥やしになり、醍醐味となり生きる楽しみとなるのです。

 

あなたも自分自身で自己責任という生き方をしてみるのもよいかもしれません。

 

自己責任ということは何を意味するのか

少し前によくテレビでも「自己責任」という言葉が流れていましたね。実はこの言葉あまり使うべきではないんじゃないかと最近思うようになりました。なぜかといえば、この言葉で大体のことが片付いてしまうような気がしてしまったのです。そして、結構冷たい感じがするというか深く考えると何もできなくなるようなそんな危険性をはらんでいるような…

そこで、この記事を書こうかずっと悩んでいましたが、思ってしまったことですし、書いてしまおうと決意して今日に至ったわけです。なので、これを読んでもひとつの考えであると思って読んでみてもらえれば幸いだと思います。

それでは、自己責任ということがどういうことなのか、どうして使うべきではないのかを書いていってみたいと思います。

 

1.この記事の前提とする背景

ジェームズ・アレンさんの「原因と結果の法則」に多分の影響を受けています。そのため、原因→結果というつながりを意識しているため、行動も発する言葉も思いもそれが原因であれば、自ずとその後の事象に繋がるということを念頭に置いています。これには、自分のみならず自分と関わりのある他人も更にはその背景、成長の過程なども含めて考えて書いていますので、ご理解の程よろしくお願いいたします。

2.「自己責任」の意味

(1)一般的に言えること

自己責任の意味を調べてみました。興味があればご自身でも調べてみてください。僕が調べた限りでは、「自分の行動による影響は自分で責任を取るということ。その内容には他人は一切関わりを持たない」ということです。

(2)個人的に考えること

僕は行動だけではなく、言葉も思いもそこに含まれると思っています。そして、それに影響されるもの、例えば話をする相手とか世話をしているペットとかそのようなものにどのように接するかということも更にどのように今まで生きてきたかということも考えたうえでの行動が言葉が思いが必要であってそれに責任を持つべきなのではないかと考えるようになったのです。

これには、前述の背景のみならず自己啓発書などにも書かれていると思いますが、「変えることができるのは自分のみである。他人を変えることは難しく、不可能に近い。」という考えに基づいているものです。これは、実は自己責任に繋がる考えだと思っています。他人の行動は自分が責任を負うべきではないし、負えるものではないということを暗に示唆しているのではないでしょうか。

自分が行動を起こす、言葉を発するなど相手に影響を与える行動をしたあとに、それを受け取った相手がどのような行動を起こすのかということをある程度は予想をすべきではないのかなと思うのです。だから行動をした後にどのようになるのかはその行動を起こした人の責任となるような気がするのです。

もし、人と人が話をしている場合にはこれが交互に行われます。

・Aさんが言葉を発する → Bさんがどう受け取りどう行動するかはある程度予想

・Bさんが言葉を受け取る → Bさんの中で噛み砕き

・Bさんが言葉を発する。 → Aさんがどう受け取りどう行動するかはある程度予想

これの繰り返しです。

つまり、このように考えると自己責任とは今に始まったことではなくずっとむかしから自分たちの中で意識しなくても普通にやれていたことであるとおもうのですが、最近はこの流れにうまく乗れない人たちも出てきたような気がします。もしかしたら僕もそうかもしれません。これは誰が悪いというのでもなく、劣ったとかそういうのでもなく、時代がそうなるようになってしまっているというのが僕の考えです。

ですから、今の時代を生きるときには昔は考えなくても良かったことを少しだけ考えるだけでずっと暮らしやすくなるような気がします。

 

3.「自己責任」のどこに引っかかりを覚えるか

これは、もうすでに述べているのですが、自己責任ということは考えれば考えるほど範囲が広くかなりのことをこの言葉で片付けることができるような気がするのです。これが僕がひっかかっていることです。しかし、これによって片付けていいこと悪いことってあると思うんです。だからこそ、極力使わないほうがいいんではないかと思うのです。

昔は考えなくても良かった自己責任がなぜ今考えなければいけなくなってきたかということに触れてこの記事を締めたいと思います。

<自己責任を考えなければいけない理由>

(1)時代背景

昔:大家族、村(組織の中で育つ)、一致団結

今:核家族、個(組織という認識が薄い)、個人プレー

(2)ルールというものに対する認識

昔は、時代背景にも書きましたが、大家族で村で育ちます。子育ても村全体でするようなイメージで、お隣さんからも叱られて当たり前です。すると、地域のルールによって生活する癖がつきますし、反省の仕方も学ぶことができます。これが学校でも家庭でもそれこそ村を歩いている時ですらそうだったかもしれません。つまり、共通のルールが染み込みますので、他の人に注意をされても反省し、自分で行動を正すことができますので、自己責任を意識せずともうまく立ちまわることができるようになります。

今は、核家族で鍵っ子も多いかもしれません。子育てといえば家庭の中で行います。地域との関わりもそんなに濃くはないのではないでしょうか。このようなことから考えると共通ルールというものを持ちにくい状況になります。他人に注意され慣れていないことのゆえに自分の感情に惑わされるのではないでしょうか。こうなってくると他人に注意すること自体が危険なことのように感じます。そこに自己責任を意識しなければいけない理由が出てくるのです。

これは、ビジネスにおいても同じことで知らない分野や知らない顧客にアタックしていくのが危険なことです。始めるのであれば、相手を知るところからはじめなければいけません。知らない人にどんな言葉でどんな態度で接すればいいかということを考えるべきだよなぁと思うのです。

あなたは、どのように感じますか?

それぞれの役割

今日、僕が所属しているグループで運動会を行いました。僕は運営側というよりはメンバーとして参加させていただ来ました。そこで、感じたことを共有したいと思います。

組織として存在する様々な集まりがありますが、よく知られているものには会社がありますよね。その中でもプロジェクトによって分かれていたり、部署などで分かれていたりします。その中で会社の部署とかになると部長とか課長とかという組織上任命された役割の人がいます。それはそれで大事です。しかし、実は目に見えない役割というものも存在するのです。いわゆる影のリーダーとかいうやつです。これは意識するしないにかかわらず存在していることになります。物事をうまく進めようとすれば、組織上のリーダーと影でリーダー的に物事を進めていく人とが必要になるのです。

このことは昔読んだある本に「リーダーシップは力(権力)を持たなければいけない」というようなことがテーマで語られていた中に記述されていたと思います。どちらも力を持っているというような話だったかと思うのですが、そこからリーダーだけでなく、それぞれの役割があり、表面上の役割と物事をすすめるための影の(内面的な)役割とがあると理解しました。

それを今日の運動会で感じたのです。いろいろと準備をしてくれて進行して倉田係の人たちがいました。その人たちには本当に感謝しかありません。そして、僕がやろうとするとなかなか難しいかなぁというかできないのではなく力が非常に必要になると思うのです。その意味でとても感謝しているのですが、そこに参加していた人たちもそれぞれ色々な役割があり、特に割り振られていたわけではないですが、いろいろなフォローに回ったりする人がいました。はたまた、声を掛けあったり、みんなが楽しくやれるように応援したり。

なんだかいいですよね。これは、運動会だけではなく仕事でのプロジェクトでも同じだなあと感じました。フォローすべきところではフォローして、引くところでは引き、出るところでは出るというのは大事ですし、周りを見てうまくいかなさそうなところを声をかけて、うまく行かないと思ったら声を上げて助けを呼び、なんとかプロジェクトを成功に導く。

これはリーダーだけの力ではなく、みんながそれぞれの役割を担うことによって成り立つんだと思った次第です。そこには優しさ、ルール、厳しさ、柔軟さが必要になってくると思うんです。

さて、あなたはどう考えますか?

 

いろいろあってそれでよい

タイトルの「いろいろあってそれでよい」とは、僕が感じていて生活や活動の基盤にしたいと思っている思いです。個人のことを思えば、人生いろいろありますよね。悲しいことも楽しいことも。それがあって人生は輝きを放つと思っています。それがその人の味を作り出していく。そして少し考える範囲を広げて世間一般についてもそう思うのです。

しかし、そこには個人で考えた時には出てこなかった問題も多く内在し、それの一部が表に出ている状況が今のネットの世界だったり、社会だったりするのではないかなぁと感じる時があります。

先日、ネットで目にしたのは人種差別的な発言があるとか発達障害の話とか。自分の子供も発達障害であると診断されているし、ましてやそのように診断されていない兄弟もそうなんではないかと感じる今日このごろ。発達障害については個人的に目につきやすい内容です。また、なぜだか人種差別。今のこのご時世にとも思うのですが、もしかしたら多様性が目立ってきた今だからこそなのかもしれません。

多様性が容認というか認められつつある昨今の日本の社会と、ネットの普及に伴って発言がしやすくなってきている状況が合わさると人種差別的な発言も大きく広がることになるのかもしれません。昔は小さな村の中という閉じた世界だったのが、もっと広い世界になった感じでしょうか?

人間が暮らす状況は多様性が認められたり、ネットで広い世界にアクセスできたりとバージョンアップして新しい環境になりつつあると感じています。それに比べて僕達人間は昔のままの状態なのではないでしょうか?人にも多様性があるので、今の状況に対応できる人もいますが、対応できない人は今までと同じように本来は個としてみるべきところを個を見るときに個が所属しているグループを投影して見てしまう傾向があるように感じます。ある意味ではそういう部分もあるのかもしれませんが、それよりも個としてみてあげたほうが断然よい結果が生まれると思うのです。

多様性が認められるということは、発達障害を持った人のことも理解してもらえる場が少しずつできているのではないかと思う部分です。もしかしたら、間違っているのかもしれません。しかし、ネットで発達障害の情報をよく目にするようになったのは事実です。

このような状況を見るにあたり、いろいろな人と力を合わせて社会を作っていくとそれは面白いものが生まれるのではないかと思いが湧き上がってきます。国もいろいろ、人種もいろいろ、考え方もいろいろ。それでいいと思うのです。お互いがお互いを認めてあげれたら、良い社会になっていくのではないかと思うのです。

なかなか難しい部分もありますが、よい世の中になったらいいなぁと感じています。

 

自分がどこに向かっているかを知るために

あなたは、目標があるだろうか?

目標を立てることはとても大事だと思う。しかし、それが絶対でないことは、いろいろな書物や意見があり、知っていることだと思う。

では、目標を立てる必要はあるのだろうか。それともないのだろうか。

実は、絶対ではないことを前提にすると、目標を立てたほうが自分がどこに進んでいるかを明確にすることができるので、より良いのではないかと思う。ではどれぐらい先にするのがいいのか。それも人それぞれ。僕が読んだ本でとても好きな本の中には、まず葬式の時にどのように言われたいかということを4つの分野で考えるとよいと書かれていた。

これが長期目標であり、次に設定するのは、中期目標。大体10年から7年ぐらいの目標を立てるといいのではないだろうか。死に向かう途中のあるポイントでは、どのようなっていると最終的な目標に達成できるかを考えることができるからだ。

そして、1年スパンの短期目標。1ヶ月、1周間、1日とやることを明確にしていくと、1日が充実したものになるような気がする。

こう読んでみると、長期目標から短期目標、1日の実施項目まで落とし込めば、どこに進んでいるかを明確にすることができ、いま自分が進んでいる道はどこなのかを知る良いきっかけとなることができることがお分かりいただけるだろうか。

絶対ではなくても、目標を立てたほうがよい理由はここにある。

子供の世界と大人の世界の違いを感じるとき

僕は子供の時からドラえもんが好きで大人になった今でもドラえもんを特に映画をよく見ます。その映画の中でもこの記事のタイトルのように子供と大人の世界の境界線を垣間見える時があるのです。

それは、作っている人の意図も往々にしてあるのですが、それにとどまることなく実際にそうなんだろうなと思う次第です。そこで本日はどの映画のどの部分で感じるのかということを大人になった僕の視点で書いてみたいと思います。

1.子供の世界

子供の世界とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。これはドラえもんの映画全般に言えることですが、子供であるのび太たちは大人に比べて柔軟にどんな世界でも受け入れてそこで全力で生きていこうとする部分が子供の世界だなぁと思うところです。

お話の中では現実世界の大人としてのび太のママやパパなど、登場人物の親が出てきます。現実の親よりも柔軟性はあると思うのですが、やはり大人というものを演じる部分において柔軟性、特に特異な物事が起きた時には柔軟性がないものであると描かれているような気がします。悲しいかな大人は生きてきた分だけ現実に晒されており、自分の無力さやいつのまにか自分の中で構築された普通というとても変な概念ができてしまうのです。すべての人がというわけではありませんが多くの人がそのような状態になっているのではないかと推測します。

しかし、ここではそれは悪いこととして表現しているのではなく単にそのような状態になっているのだということが言いたいのです。対して子供は先程も書きましたが、非常に柔軟です。話の中では友人となった人が困っている場合には友達として一人の人間として助けることが当たり前として行動する部分なんかは見習わなければいけないなと思うところです。

2.ドラえもんの映画の中で子どもと大人の壁を感じるシーン

この記事を書くきっかけとなったシーンがあります。それは、のび太の恐竜2006の最後の部分。のび太たち5人がタイムマシンで帰ってきてのび太の部屋を出てジャイアン・スネ夫・静香ちゃんが玄関から帰るところにのび太のママが声をかけるシーンです。

のび太のママは、のび太たちに問いかけます。「大勢で何していたの?」と。

のび太は振り返り、「ちょっと。」と応えるのです。過去の世界で経験してきたことを友人と分かち合い、その余韻にひたっているところに大人は入っていけないのです。そして、このシーンを見るたびに子供だった自分が大人になり、その子供の世界をもう2度と経験することもできないし、子どもたちと共有することもできないだろうと実感するのです。

3.大人の世界はつまらないのか

僕は、これを考えるたびに大人の世界も捨てたものではないと考えられるようになってきました。そして、大人の世界はそれなりに面白いとも感じます。子供の頃感じていた楽しかったことが大人になって少し目先や方向が変わっただけで本質的にはほとんど何も変わらないということに気づいたのです。

ただ、感じることやできることできないことは大人と子どもとでは違います。できる範囲の中でそれぞれが感じ成長していけばそれでいいのではないかと思うのです。

大人もまだまだ成長途中にあるのだと思うと子供の頃のワクワク感が戻ってくるような気がして個人的にはモチベーションが上がってきます。

このように感じながら、子供の世界に入れないことや共有しにくいことは理解しつつ、できる範囲で子どもたちやその世界のことを理解し、応援していきたいと思います。

 

ものと心の境界線

最近、ものよりも心のことにアンテナが張っていることに気づく。本を読んでも話を聞いても心のことに敏感に反応するからだ。そこで、今日は、最近読んだ本の中で2つの本から教えられたことを心の面からお伝えしたいと思う。

1.どんな本を読んでいたのか

2.そこから何に反応したのか

3.そこから得られたことは何か

 

1.どんな本を読んでいたのか?

最近読む本はビジネス系の本が多いが、今回も例にもれず、資産をどう構築するのかといった内容の本だった。これはもちろんお金というものに関する本だ。しかし、お金は不思議なもので、他のものと比べるとものという側面と心という側面を持っているというか学ぶのに適した存在であることは確かなことだ。

著者は同じ方で、アメリカの大富豪の方だ。最近は働きを買えられたというか役割が一段落したとかで本名での活動を開始されたとのこと。タイトルは、「7年以内に最低1億円の個人資産をつくるマル秘資産形成術」と「大富豪の投資術」。

この方は本当に好きで僕の性格にマッチした内容の本を書かれている。本については個人差によって合う合わないがあると思うので、積極的にはおすすめしないが、気になるようであれば一読することをおすすめする。きっと、何かを感じたから気になるので、それを利用しない手はない。

もちろん、「資産形成術」は資産について書かれているので、その関係で本の1コーナーに収入額によってどのような生活が送れるようになるのかということが書かれていた。今回引っかかったところと関係するのはこの部分。

「大富豪の投資術」は、投資に関する話なので、さまざまな投資の話が書かれている。どちらも資産に関連するものだが、こちらのほうがより多くのことが書かれている感じがする。

2.そこから何に反応したのか

実は「大富豪の投資術」は、先日手に入れたばかりでほとんど読み切れていない。そんな状況なのに何に反応したというのだろう?実は、偶然開いたページに書かれていたことがとても心に響いてしまったのだ。

「収入が多くなれば生活の質も向上するのか」

というサブタイトルがついたチャプターがあり、その中に書かれていた内容がそれ。つまり、生活の質は何によって決まるのかを書いた文章だった。簡単にいえば、1000万円未満と1000万円以上で生活の質は変わらないということだった。心の中で「そうなの?」と思ったのも事実。しかし読み進めていくうちにそれ以上では豪華なものにあふれた生活が出来るだけで、生活の質(生活のしやすさとか)はある一定の収入で止まってしまうということだった。本が書かれた当時で1000万だから2500万円ぐらいが妥当と本には書かれていたが、なるほどそうなのかもなと思った。これがこの本に反応した部分。ちょっとかっこいい言い方をすれば、ファースト・リアクション?

3.そこから何が得られるのか

僕はそこからある一定までは頑張って収入を増やす必要はあるのかもしれないと思った。そして本の中にも収入を増やすことをいけないことと言わないと書いてあった。気をつけるべきは収入中毒にならないことと。収入は中毒性があるということだ。確かに自分は収入が増えれば嬉しいし、もっと収入を得るために頑張って働きたいという気持ちになる。結局休みも返上して働いてもあまり気にならなくなる。それって本当に幸せなんだろうかと思う。そこで、目指すべきは収入の増加と使える時間の確保なのではないかと思った。収入が増えて時間が削られると家族との時間も少なくなる。それよりは収入も家族との時間も両方共得られたほうがよくはないだろうか?

ものと心の境界線のひとつはこのあたりにあると思えるのだ。

あなたはどう考える?

 

怒りをうまく使うことで成功に近づく

感情のコントロールの話をしましたが、今日はその中でも個人的に厄介だと思っている怒りについて取り上げたいと思います。

特に怒りはあまり良くないと思われていると思いますし、僕も良くないと思っています。しかし、もしかしたらうまく使ったら良い方向に向かうことができるのではないかと思いたちいろいろと考えてみました。

1.怒りがなぜいけないと言われているのか

怒りには、その対象によって何パターンかあると思います。ここでは、自己への怒りと他者への怒りという2つのパターンを見てみたいと思います。

他者への怒りはあまり良い結果を生まないような気がしているのです。なぜならば、他者に対して怒るということを考えると、自分のコントロールできないところに対して感情を特に負の感情を持っているということですね。すると、自分でコントロールできないのにコントロールしようとするわけです。すると他者との違いというものがあるため、そのところで大小ありますが、軋轢が生じるのです。

大きくなれば喧嘩したりそこから怪我に発展してしまったりという具合に良くない方向に進む可能性が高くなるのです。お互いに怪我したり良くない思いを持つことはやっぱり良くないですよね。となると、怒りは良くないという結論に至るわけです。これが、良くないと言われる所以だと解釈しています。

2.怒りによいパターンはないのか?

では、良いパターンとはどのようなものかを考えてみましょう。それは、自己への怒りというものでないかと思うのです。これについては自分ですので、コントロールすることが可能なわけです。こんなこともできないのかとかこの人にこんなことを言ってしまった。はたまたしてしまった。などなど。また、言われたことできなかったから怒られた。なぜ出来なかったのか。言ったような反省に近い怒り。それが実はよい結果を生むのではないかと思うのです。そこには、改善に向けた意識を持つことが可能です。日々努力もします。他者への怒りに比べたら、随分負の要素もありません。怪我もありません。喧嘩もありません。自分での自分の行動を変えようとするわけですから成長に繋がると思うのです。するとできることが多くなってくる。

どうですか?良いことばかりな気がしませんか?少し行き過ぎると自分が辛くなると思うので、適度な感じがいいと思うのですが、これが、怒りにも良い面があるのではないかと思うところなのです。

3.まとめ

怒りは本当は精神的にも肉体的にもあまりよいものではありません。一説によると怒りによって免疫が落ちて、戻ってくるまでに何時間かかかるとか。

これって、自分にとってはメリットでも何でもないです。しかし、これをうまく使って成長することができれば、どうでしょうか?できることが多くなってきたらどうですか?つまり、一般的に良くないと言われているものでも見方を変えたり考え方を変えれば、もしくはうまく付き合えば良い方向に向かっていくことができると思うのです。

もし、良くないことにとらわれてしまっている場合には、難しいんですけれども、別の観点で物事を見てみるのもいいのではないかと思います。

では、今日はこのあたりで。

 

感情をコントロールできないことによる代価

このサイトのコンテンツの一つとして「自分の人生を生きる」をテーマとして作ろうと思っているものがあります。そこで書く内容は様々な角度から人生というものを紐解こうと考えていますが、ここで記されている記事もその内容の一つです。

今日お話する内容は、「感情をコントロールするべし」とよく本などにも書かれていると思うのですが、なぜコントロールしなければいけないのかということを自分なりに噛み砕いて説明したいと思います。

1.感情の分類

感情にはみなさんも知っていると思いますが、大きく分けると2種類あります。良い方向に作用する感情と悪い方向に作用する感情です。ここでいう良いとか悪いはあくまでも自分にとってどのように作用されるのかを考えた時のものです。実はこの2つの分類はどちらも不要とか必要とかいうものではないと思っています。両方共必要だと思っているのです。ただ、その分類のコントロールの仕方を覚えるだけで人生にとっても益になるのではないかというのがここでの主張となります。

では、代表的な感情を2つの分類に分けてみようと思います。

<悪い方向に作用する感情>

・怒り

・恨み

・強すぎる不安

・強すぎる欲望

・強すぎる恐怖

<良い方向に作用する感情>

・喜び

・感謝

・程よい不安

・程よい欲望

・程よい恐怖

2.感情の対応法(提案)

これから見てわかるように、この2つの中でも更に2つの分類に分けることができると思います。両方に属するものと片方に属するものです。両方に属するものはすぎると問題が出るのですが、程よくあれば良い方向に向かうことが多い感情もあるのです。例えば、不安という要素も強すぎると動けなくなりますが、ほどよければその不安の原因を探り、対策を取ることができるのです。このように2つに属するものはうまく使えばとても良くなります。これには、今まで学んできたことが生かされます。自分が不安に思っているかどうかを認識して、それに正しい対応が取れれば、問題になることは多くありません。

片方にしか属していない感情については、良い方向に作用する感情を強くすることとできるだけ多くの時間を良い方向に作用する感情を持つようにすることが重要です。と同時に悪い方向に作用する感情は弱く、できるだけ短い時間で終わらせるようにする努力が必要です。しかし、これがなかなか難しいということは自分もよくわかっていますし、みなさんも同じ思いだと思います。

これを訓練してできるようになると人生が大きく良い方向に向かっていくと思います。

感情をコントロールすることはかなり大変だとは思いますが、自分の人生を生きる上では非常に重要な要素の一つとなります。なぜかといえば、感情によって自分が支配されてしまえば、思いとか体とかもそちらに引っ張られてしまい、自分の人生を生きるというには程遠い状態になるからです。