それぞれの役割

今日、僕が所属しているグループで運動会を行いました。僕は運営側というよりはメンバーとして参加させていただ来ました。そこで、感じたことを共有したいと思います。

組織として存在する様々な集まりがありますが、よく知られているものには会社がありますよね。その中でもプロジェクトによって分かれていたり、部署などで分かれていたりします。その中で会社の部署とかになると部長とか課長とかという組織上任命された役割の人がいます。それはそれで大事です。しかし、実は目に見えない役割というものも存在するのです。いわゆる影のリーダーとかいうやつです。これは意識するしないにかかわらず存在していることになります。物事をうまく進めようとすれば、組織上のリーダーと影でリーダー的に物事を進めていく人とが必要になるのです。

このことは昔読んだある本に「リーダーシップは力(権力)を持たなければいけない」というようなことがテーマで語られていた中に記述されていたと思います。どちらも力を持っているというような話だったかと思うのですが、そこからリーダーだけでなく、それぞれの役割があり、表面上の役割と物事をすすめるための影の(内面的な)役割とがあると理解しました。

それを今日の運動会で感じたのです。いろいろと準備をしてくれて進行して倉田係の人たちがいました。その人たちには本当に感謝しかありません。そして、僕がやろうとするとなかなか難しいかなぁというかできないのではなく力が非常に必要になると思うのです。その意味でとても感謝しているのですが、そこに参加していた人たちもそれぞれ色々な役割があり、特に割り振られていたわけではないですが、いろいろなフォローに回ったりする人がいました。はたまた、声を掛けあったり、みんなが楽しくやれるように応援したり。

なんだかいいですよね。これは、運動会だけではなく仕事でのプロジェクトでも同じだなあと感じました。フォローすべきところではフォローして、引くところでは引き、出るところでは出るというのは大事ですし、周りを見てうまくいかなさそうなところを声をかけて、うまく行かないと思ったら声を上げて助けを呼び、なんとかプロジェクトを成功に導く。

これはリーダーだけの力ではなく、みんながそれぞれの役割を担うことによって成り立つんだと思った次第です。そこには優しさ、ルール、厳しさ、柔軟さが必要になってくると思うんです。

さて、あなたはどう考えますか?

 

いろいろあってそれでよい

タイトルの「いろいろあってそれでよい」とは、僕が感じていて生活や活動の基盤にしたいと思っている思いです。個人のことを思えば、人生いろいろありますよね。悲しいことも楽しいことも。それがあって人生は輝きを放つと思っています。それがその人の味を作り出していく。そして少し考える範囲を広げて世間一般についてもそう思うのです。

しかし、そこには個人で考えた時には出てこなかった問題も多く内在し、それの一部が表に出ている状況が今のネットの世界だったり、社会だったりするのではないかなぁと感じる時があります。

先日、ネットで目にしたのは人種差別的な発言があるとか発達障害の話とか。自分の子供も発達障害であると診断されているし、ましてやそのように診断されていない兄弟もそうなんではないかと感じる今日このごろ。発達障害については個人的に目につきやすい内容です。また、なぜだか人種差別。今のこのご時世にとも思うのですが、もしかしたら多様性が目立ってきた今だからこそなのかもしれません。

多様性が容認というか認められつつある昨今の日本の社会と、ネットの普及に伴って発言がしやすくなってきている状況が合わさると人種差別的な発言も大きく広がることになるのかもしれません。昔は小さな村の中という閉じた世界だったのが、もっと広い世界になった感じでしょうか?

人間が暮らす状況は多様性が認められたり、ネットで広い世界にアクセスできたりとバージョンアップして新しい環境になりつつあると感じています。それに比べて僕達人間は昔のままの状態なのではないでしょうか?人にも多様性があるので、今の状況に対応できる人もいますが、対応できない人は今までと同じように本来は個としてみるべきところを個を見るときに個が所属しているグループを投影して見てしまう傾向があるように感じます。ある意味ではそういう部分もあるのかもしれませんが、それよりも個としてみてあげたほうが断然よい結果が生まれると思うのです。

多様性が認められるということは、発達障害を持った人のことも理解してもらえる場が少しずつできているのではないかと思う部分です。もしかしたら、間違っているのかもしれません。しかし、ネットで発達障害の情報をよく目にするようになったのは事実です。

このような状況を見るにあたり、いろいろな人と力を合わせて社会を作っていくとそれは面白いものが生まれるのではないかと思いが湧き上がってきます。国もいろいろ、人種もいろいろ、考え方もいろいろ。それでいいと思うのです。お互いがお互いを認めてあげれたら、良い社会になっていくのではないかと思うのです。

なかなか難しい部分もありますが、よい世の中になったらいいなぁと感じています。

 

自分がどこに向かっているかを知るために

あなたは、目標があるだろうか?

目標を立てることはとても大事だと思う。しかし、それが絶対でないことは、いろいろな書物や意見があり、知っていることだと思う。

では、目標を立てる必要はあるのだろうか。それともないのだろうか。

実は、絶対ではないことを前提にすると、目標を立てたほうが自分がどこに進んでいるかを明確にすることができるので、より良いのではないかと思う。ではどれぐらい先にするのがいいのか。それも人それぞれ。僕が読んだ本でとても好きな本の中には、まず葬式の時にどのように言われたいかということを4つの分野で考えるとよいと書かれていた。

これが長期目標であり、次に設定するのは、中期目標。大体10年から7年ぐらいの目標を立てるといいのではないだろうか。死に向かう途中のあるポイントでは、どのようなっていると最終的な目標に達成できるかを考えることができるからだ。

そして、1年スパンの短期目標。1ヶ月、1周間、1日とやることを明確にしていくと、1日が充実したものになるような気がする。

こう読んでみると、長期目標から短期目標、1日の実施項目まで落とし込めば、どこに進んでいるかを明確にすることができ、いま自分が進んでいる道はどこなのかを知る良いきっかけとなることができることがお分かりいただけるだろうか。

絶対ではなくても、目標を立てたほうがよい理由はここにある。

子供の世界と大人の世界の違いを感じるとき

僕は子供の時からドラえもんが好きで大人になった今でもドラえもんを特に映画をよく見ます。その映画の中でもこの記事のタイトルのように子供と大人の世界の境界線を垣間見える時があるのです。

それは、作っている人の意図も往々にしてあるのですが、それにとどまることなく実際にそうなんだろうなと思う次第です。そこで本日はどの映画のどの部分で感じるのかということを大人になった僕の視点で書いてみたいと思います。

1.子供の世界

子供の世界とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。これはドラえもんの映画全般に言えることですが、子供であるのび太たちは大人に比べて柔軟にどんな世界でも受け入れてそこで全力で生きていこうとする部分が子供の世界だなぁと思うところです。

お話の中では現実世界の大人としてのび太のママやパパなど、登場人物の親が出てきます。現実の親よりも柔軟性はあると思うのですが、やはり大人というものを演じる部分において柔軟性、特に特異な物事が起きた時には柔軟性がないものであると描かれているような気がします。悲しいかな大人は生きてきた分だけ現実に晒されており、自分の無力さやいつのまにか自分の中で構築された普通というとても変な概念ができてしまうのです。すべての人がというわけではありませんが多くの人がそのような状態になっているのではないかと推測します。

しかし、ここではそれは悪いこととして表現しているのではなく単にそのような状態になっているのだということが言いたいのです。対して子供は先程も書きましたが、非常に柔軟です。話の中では友人となった人が困っている場合には友達として一人の人間として助けることが当たり前として行動する部分なんかは見習わなければいけないなと思うところです。

2.ドラえもんの映画の中で子どもと大人の壁を感じるシーン

この記事を書くきっかけとなったシーンがあります。それは、のび太の恐竜2006の最後の部分。のび太たち5人がタイムマシンで帰ってきてのび太の部屋を出てジャイアン・スネ夫・静香ちゃんが玄関から帰るところにのび太のママが声をかけるシーンです。

のび太のママは、のび太たちに問いかけます。「大勢で何していたの?」と。

のび太は振り返り、「ちょっと。」と応えるのです。過去の世界で経験してきたことを友人と分かち合い、その余韻にひたっているところに大人は入っていけないのです。そして、このシーンを見るたびに子供だった自分が大人になり、その子供の世界をもう2度と経験することもできないし、子どもたちと共有することもできないだろうと実感するのです。

3.大人の世界はつまらないのか

僕は、これを考えるたびに大人の世界も捨てたものではないと考えられるようになってきました。そして、大人の世界はそれなりに面白いとも感じます。子供の頃感じていた楽しかったことが大人になって少し目先や方向が変わっただけで本質的にはほとんど何も変わらないということに気づいたのです。

ただ、感じることやできることできないことは大人と子どもとでは違います。できる範囲の中でそれぞれが感じ成長していけばそれでいいのではないかと思うのです。

大人もまだまだ成長途中にあるのだと思うと子供の頃のワクワク感が戻ってくるような気がして個人的にはモチベーションが上がってきます。

このように感じながら、子供の世界に入れないことや共有しにくいことは理解しつつ、できる範囲で子どもたちやその世界のことを理解し、応援していきたいと思います。

 

ものと心の境界線

最近、ものよりも心のことにアンテナが張っていることに気づく。本を読んでも話を聞いても心のことに敏感に反応するからだ。そこで、今日は、最近読んだ本の中で2つの本から教えられたことを心の面からお伝えしたいと思う。

1.どんな本を読んでいたのか

2.そこから何に反応したのか

3.そこから得られたことは何か

 

1.どんな本を読んでいたのか?

最近読む本はビジネス系の本が多いが、今回も例にもれず、資産をどう構築するのかといった内容の本だった。これはもちろんお金というものに関する本だ。しかし、お金は不思議なもので、他のものと比べるとものという側面と心という側面を持っているというか学ぶのに適した存在であることは確かなことだ。

著者は同じ方で、アメリカの大富豪の方だ。最近は働きを買えられたというか役割が一段落したとかで本名での活動を開始されたとのこと。タイトルは、「7年以内に最低1億円の個人資産をつくるマル秘資産形成術」と「大富豪の投資術」。

この方は本当に好きで僕の性格にマッチした内容の本を書かれている。本については個人差によって合う合わないがあると思うので、積極的にはおすすめしないが、気になるようであれば一読することをおすすめする。きっと、何かを感じたから気になるので、それを利用しない手はない。

もちろん、「資産形成術」は資産について書かれているので、その関係で本の1コーナーに収入額によってどのような生活が送れるようになるのかということが書かれていた。今回引っかかったところと関係するのはこの部分。

「大富豪の投資術」は、投資に関する話なので、さまざまな投資の話が書かれている。どちらも資産に関連するものだが、こちらのほうがより多くのことが書かれている感じがする。

2.そこから何に反応したのか

実は「大富豪の投資術」は、先日手に入れたばかりでほとんど読み切れていない。そんな状況なのに何に反応したというのだろう?実は、偶然開いたページに書かれていたことがとても心に響いてしまったのだ。

「収入が多くなれば生活の質も向上するのか」

というサブタイトルがついたチャプターがあり、その中に書かれていた内容がそれ。つまり、生活の質は何によって決まるのかを書いた文章だった。簡単にいえば、1000万円未満と1000万円以上で生活の質は変わらないということだった。心の中で「そうなの?」と思ったのも事実。しかし読み進めていくうちにそれ以上では豪華なものにあふれた生活が出来るだけで、生活の質(生活のしやすさとか)はある一定の収入で止まってしまうということだった。本が書かれた当時で1000万だから2500万円ぐらいが妥当と本には書かれていたが、なるほどそうなのかもなと思った。これがこの本に反応した部分。ちょっとかっこいい言い方をすれば、ファースト・リアクション?

3.そこから何が得られるのか

僕はそこからある一定までは頑張って収入を増やす必要はあるのかもしれないと思った。そして本の中にも収入を増やすことをいけないことと言わないと書いてあった。気をつけるべきは収入中毒にならないことと。収入は中毒性があるということだ。確かに自分は収入が増えれば嬉しいし、もっと収入を得るために頑張って働きたいという気持ちになる。結局休みも返上して働いてもあまり気にならなくなる。それって本当に幸せなんだろうかと思う。そこで、目指すべきは収入の増加と使える時間の確保なのではないかと思った。収入が増えて時間が削られると家族との時間も少なくなる。それよりは収入も家族との時間も両方共得られたほうがよくはないだろうか?

ものと心の境界線のひとつはこのあたりにあると思えるのだ。

あなたはどう考える?

 

怒りをうまく使うことで成功に近づく

感情のコントロールの話をしましたが、今日はその中でも個人的に厄介だと思っている怒りについて取り上げたいと思います。

特に怒りはあまり良くないと思われていると思いますし、僕も良くないと思っています。しかし、もしかしたらうまく使ったら良い方向に向かうことができるのではないかと思いたちいろいろと考えてみました。

1.怒りがなぜいけないと言われているのか

怒りには、その対象によって何パターンかあると思います。ここでは、自己への怒りと他者への怒りという2つのパターンを見てみたいと思います。

他者への怒りはあまり良い結果を生まないような気がしているのです。なぜならば、他者に対して怒るということを考えると、自分のコントロールできないところに対して感情を特に負の感情を持っているということですね。すると、自分でコントロールできないのにコントロールしようとするわけです。すると他者との違いというものがあるため、そのところで大小ありますが、軋轢が生じるのです。

大きくなれば喧嘩したりそこから怪我に発展してしまったりという具合に良くない方向に進む可能性が高くなるのです。お互いに怪我したり良くない思いを持つことはやっぱり良くないですよね。となると、怒りは良くないという結論に至るわけです。これが、良くないと言われる所以だと解釈しています。

2.怒りによいパターンはないのか?

では、良いパターンとはどのようなものかを考えてみましょう。それは、自己への怒りというものでないかと思うのです。これについては自分ですので、コントロールすることが可能なわけです。こんなこともできないのかとかこの人にこんなことを言ってしまった。はたまたしてしまった。などなど。また、言われたことできなかったから怒られた。なぜ出来なかったのか。言ったような反省に近い怒り。それが実はよい結果を生むのではないかと思うのです。そこには、改善に向けた意識を持つことが可能です。日々努力もします。他者への怒りに比べたら、随分負の要素もありません。怪我もありません。喧嘩もありません。自分での自分の行動を変えようとするわけですから成長に繋がると思うのです。するとできることが多くなってくる。

どうですか?良いことばかりな気がしませんか?少し行き過ぎると自分が辛くなると思うので、適度な感じがいいと思うのですが、これが、怒りにも良い面があるのではないかと思うところなのです。

3.まとめ

怒りは本当は精神的にも肉体的にもあまりよいものではありません。一説によると怒りによって免疫が落ちて、戻ってくるまでに何時間かかかるとか。

これって、自分にとってはメリットでも何でもないです。しかし、これをうまく使って成長することができれば、どうでしょうか?できることが多くなってきたらどうですか?つまり、一般的に良くないと言われているものでも見方を変えたり考え方を変えれば、もしくはうまく付き合えば良い方向に向かっていくことができると思うのです。

もし、良くないことにとらわれてしまっている場合には、難しいんですけれども、別の観点で物事を見てみるのもいいのではないかと思います。

では、今日はこのあたりで。

 

感情をコントロールできないことによる代価

このサイトのコンテンツの一つとして「自分の人生を生きる」をテーマとして作ろうと思っているものがあります。そこで書く内容は様々な角度から人生というものを紐解こうと考えていますが、ここで記されている記事もその内容の一つです。

今日お話する内容は、「感情をコントロールするべし」とよく本などにも書かれていると思うのですが、なぜコントロールしなければいけないのかということを自分なりに噛み砕いて説明したいと思います。

1.感情の分類

感情にはみなさんも知っていると思いますが、大きく分けると2種類あります。良い方向に作用する感情と悪い方向に作用する感情です。ここでいう良いとか悪いはあくまでも自分にとってどのように作用されるのかを考えた時のものです。実はこの2つの分類はどちらも不要とか必要とかいうものではないと思っています。両方共必要だと思っているのです。ただ、その分類のコントロールの仕方を覚えるだけで人生にとっても益になるのではないかというのがここでの主張となります。

では、代表的な感情を2つの分類に分けてみようと思います。

<悪い方向に作用する感情>

・怒り

・恨み

・強すぎる不安

・強すぎる欲望

・強すぎる恐怖

<良い方向に作用する感情>

・喜び

・感謝

・程よい不安

・程よい欲望

・程よい恐怖

2.感情の対応法(提案)

これから見てわかるように、この2つの中でも更に2つの分類に分けることができると思います。両方に属するものと片方に属するものです。両方に属するものはすぎると問題が出るのですが、程よくあれば良い方向に向かうことが多い感情もあるのです。例えば、不安という要素も強すぎると動けなくなりますが、ほどよければその不安の原因を探り、対策を取ることができるのです。このように2つに属するものはうまく使えばとても良くなります。これには、今まで学んできたことが生かされます。自分が不安に思っているかどうかを認識して、それに正しい対応が取れれば、問題になることは多くありません。

片方にしか属していない感情については、良い方向に作用する感情を強くすることとできるだけ多くの時間を良い方向に作用する感情を持つようにすることが重要です。と同時に悪い方向に作用する感情は弱く、できるだけ短い時間で終わらせるようにする努力が必要です。しかし、これがなかなか難しいということは自分もよくわかっていますし、みなさんも同じ思いだと思います。

これを訓練してできるようになると人生が大きく良い方向に向かっていくと思います。

感情をコントロールすることはかなり大変だとは思いますが、自分の人生を生きる上では非常に重要な要素の一つとなります。なぜかといえば、感情によって自分が支配されてしまえば、思いとか体とかもそちらに引っ張られてしまい、自分の人生を生きるというには程遠い状態になるからです。

 

お金の価値とは何か?

お金の価値とは何かをよく考える。なぜかといえば、自分の人生を生きる上で避けては通れない問題だからだ。なぜ自分の人生を生きるときにこのことが問題になるのかはいずれこのサイトのコンテンツの中で触れることになると思うが、今日はそれとは別にお金について考えていることを書いてみたい。

1.お金って本当は何か?

お金は生活するのに必要なものだと感じるし、お金を貰えるととてもうれしく感じる。それってどうしてだろうか?本当に生活するのにお金は必要なのか?なぜお金を貰えると嬉しくなるのだろうか?

実は、生活するのにお金はそんなに重要ではないことをある本から学んだ。その本はジェームス・スキナーさんが書かれた「お金の科学」という本からだと思う。(もしかしたら、おまけでついてきた動画だったかもしれない。)

詳しくはこの本を手にとって読んでもらいたいが、そこでは実はお金とは単なるものでしかないと書かれている。お金がなくても生活している人はいるとも書かれている。実はこれは、いろいろなところで書かれている内容のことだ。つまり、自分を売り込むこと、自分を顧客の懐に潜り込ませることでお金を得ずに生活することができる。はたまたお金を手に入れることができる。つまり、お金とはそのようなものであるということである。生活するための一つの手段ではあるが、マストではないのだ。

では、なぜお金というものがあるのかといえば、価値を標準化してその取引をしやすいようにしたものがお金である。簡単にいえば、物々交換の延長でそれがルール化されたに過ぎない。であれば、価値を提供した時にお金をもらうのかものをもらうのかが変わるだけで、生活自体に困るわけではない。大事なことはお金ではなく、自分が何を提供できるかということと報酬として何を受け取るかということである。

このことからお金とは価値と等価である。

2.お金には2種類あることを知っているだろうか?

さて、お金には2種類あることをご存知だろうか?1つは、止まっているお金。1つは動いているお金。経済は動いているお金で回っている。しかし、個人が得たお金は手に入れた時点では止まっているお金である。

止まっているお金の代表的なものに、給与などで得たお金や宝くじで得たお金などがある。これは入ってくるはくるが、それから何も生み出さないものである。動いているお金の代表的なものに投資がある。株なりに投資すればそれがお金を生み出すし、FXなどでお金をふくらませることができる。

これを理解していないと宝くじ等で大きなお金を得るとどうしても大きな気持ちになり無計画にお金を使ってしまうことになる。すると止まっているために、それ以上そこからお金が生じることがないので、必然的にお金がなくなっていくということになる。

3.本当のお金持ちとはどういう人たちを指すのか

物質的なことだけでいえばお金持ちといえば、お金を持っている人ということができるかもしれないが、ここで言いたいことはそうではない。

どのような状況からでもお金を生み出せる人。また、お金をうまく使ってお金を増やすことができる人。お金の本質を理解して、お金を得ることができる。それがお金持ちなのではないかと思う。

さらに言えば、お金を価値であると理解しているのであれば、自分が価値を提供できる人を大事にするという意味でお金ではなく人とのつながりを大事にする人それが本当のお金持ちなのではないだろうか。お金などなくても周りに助けてくれる人が多くいればその人は生活できなくなることはないだろう。究極を言えばどんな状況でも生きていくことができる人がお金持ちなのではないだろうか。

あなたはどのように感じますか?

感謝するということ

感謝するということはとても大事なことです。

感謝をすることで人生が良い方向に進み始めるのです。しかし、感謝するということはなかなか難しいものですね。そこで、今日は感謝することはなぜ大事なのかということを書いてみたいと思います。

1.感謝のない生活をするとどうなるのか

まず、感謝のない生活をイメージしてみたいと思います。感謝がない生活を送ると常に不満が出ますし、不平も出ます。あの人ばっかいいなとか、やって当たり前なのにやってやった感が半端ないなど、出てくる言葉も感謝とは対照的にマイナスイメージのものが出てきます。想像するだけでもストレスが溜まりそうです。心だけでなく体にも影響が出てきそうですね。

このような人のそばで生活するとなかなか息苦しくなりますね。少なくとも僕は息苦しくなり一緒にいることは難しくなります。

必然的にそのようなことを聞ける人がそばにいることになるわけですが、大抵の場合、そばの人もマイナスイメージの言葉を吐くことが多いような気がします。あくまでもそのような気がするだけですが…

類は友を呼ぶということはこのようなことではないかと最近思うのです。このような状態になると負のスパイラルに入っていくような気がします。

2.感謝のある生活をするとどうなるのか

逆に感謝がある生活をイメージしてみます。そのような人は常に日常のことが当然ではなくとても有り難いことであると思って生活するのではないでしょうか?このような生活ができるのは本当にありがたいと。

たとえ相手に何をされたとしてもその人の事情もあるだろうからと不満は少ないような気がします。逆にこちらが相手に対して無礼なことしていないかと帰任したりしないかなと考えます。これもなんとなく僕のイメージですけど…

そこにあるのは、どちらかというとプラスのイメージです。そんなに居づらくはないですよね。生活をともにするのであれば、このような人のほうが生活しやすいですし、きっとこのような人のようになっていけるような気がする。

そして周りには感謝できる人が多くなっていくような気がするのです。

3.まとめ

感謝するということはかなり生活に大きな影響を与えるような気がするのです。その日その日ではそんなに大きく変わらないかもしれませんし、変わっていると感じないかもしれません。しかし、長期的に見た場合においてはかなり大きく変わってくると思います。

ぜひ、みなさんも感謝をすることを意識してみてください。

 

 

僕が伝えたいテーマの一つ

僕には伝えたいテーマがあります。

今日はそのお話をしたいと思います。

<技術に溺れた若い時>

僕は大学卒業後、IT業界に就職しました。何故かといえば、就職氷河期でなかなか行こうと思ったところ(電機メーカーとか工場系を狙っていました。)に就職できず、流れ着いたところがIT業界だったわけです。個人的にITに関しては好きでしたし、趣味で続けようと思っていたものが、本業になった感じです。昔からパソコンを触るのは好きでしたし、もろ映画やテレビの影響もあり、30歳位まで技術で職人のように生きていこうと思って頑張っていました。仕事しては家に帰ってその当時使っていたPC-UNIXのOSのインストールや構成変更などを日々行っていました。感覚的には仕事も家も常に環境を作ったりなんだかものを作ったり、ソースが公開されたと聞けばダウンロードして読んでみたりと行った感じだったのです。

<チームで働くことから人というものに興味を持つ>

そうこうするうちに会社から部下がつけられました。初めてチームというものを意識した時でした。そう、チームをまとめたり、人を見るということはより人間的になってくるのです。今までは機械と向き合い、一人で突き詰めていけば良い物が、チームで成果を上げる必要が出てくるとなるとそうも行かなくなります。そして、部下のことを考えるようになったのです。今も似ているのかもしれませんが、僕がいた会社は派遣が主な業態でしたので、近くにいることができず、1ヶ月に一回のミーティングで状況を確認し、将来どうなりたいかを話をすることを繰り返しました。

チームをまとめるために今までと違うスキルが必要になりますから、それなりに勉強します。そして、社長に提案したりするのですが、やはり机上の空論と言われてしまいます。その時はむっとした覚えがありますが、今から考えれば確かにそうかもと思うところも多々あります。

僕はそのまま人に焦点を当てて学びを続けることになります。

<インプットをアウトプットに変えることの必要性>

そして、今に至るわけですが、学びを続けるうちに自分で活用することできないことなどありました。そして学んでいくうちにその学びはなぜ必要なのかということを考えるようになりました。

自己啓発の本などにはインプットしたものはアウトプットしなければいけないとか言われますし、教えることが一番自分の理解に役立つとか言いますよね。

ここが僕が伝えたいと思った原点です。そして僕が何を伝えたいかというといろいろあるのですが、ここでは、1つに絞ってみます。

「自分の人生を生きる」

僕自身のテーマです。これを伝えてみたいと思っているのです。

これは、ひとつのコンテンツに過ぎませんし、そんなにゴリ押しをするつもりもありません。ただ、ひとつの考え方としてこんなものもあるのだと知っていただけたらそれでいいのです。そして、ある時ふと思い起こして、より良い人生を生きるための考え方の一つとして貰えたらそんな嬉しいことはありません。

そんな思いでこのサイトを作っていこうと思います。

(まだ作り途中ですからあまり風呂敷を広げるのは危険かもしれませんが。。。)