コーヒー豆ってどれぐらいの値段で買えるのか?

珈琲を飲もうとして珈琲豆を購入しようとした時にどれぐらいの値段で買えるのかということがわかりませんでした。そこで今日は、珈琲豆の単価感を書いてみたいと思います。

最初に買った豆はキリマンジャロなんですが、100gで700円弱、確か689円とかではなかったかと思います。
個人的には高いなぁと思いました。なので、安い豆を探して行き着いたのは今購入しているお店「加藤珈琲店」です。この店は昔からあるらしく31年経っているらしいです。そこは、2kgが2000円だったり、1kgが2000円だったりセールなどにより様々に値段が変わりますが、とても安くて買いやすいです。

珈琲豆の単価感は、次のようになります。

<一般的に>
・100g:500円前後 妥当な値段だと思います。

<加藤珈琲店>※多分澤井珈琲店も安いです。
・1kg:1000円〜

安い豆でもそれなりに品質は良い方だと思うのですが、なにせ量が多いので、飲みきれるか心配だと思うのではないでしょうか?大体どれぐらいの消費でなくなるのかということを見てみたいと思います。

僕の場合、1回に淹れる豆の量は固定です。ここはざっくりな正確なので、計量スプーンで3杯:16g〜18gを使用します。お湯の量は250ml〜300mlぐらいを淹れますので、この計算で行くと、100gは5回ぐらい淹れるとなくなります。対して1kgは100gの10倍ですから、毎日1回飲むと50日かかります。

平日毎日1回飲むと1ヶ月に400g消費しますから、1kgだと2ヶ月ぐらいでなくなります。
多分1回ですまないので、1ヶ月ぐらいで消費できるのではないでしょうか?

珈琲豆も農作物ですから早く消費するに越したことはないのですが、1ヶ月、2ヶ月ぐらいなら問題ないと思います。

珈琲豆を買う時の参考にしてください。

<参考>
加藤珈琲店

良い人生の意味とその生き方

先日マラソンの指導者である小出義雄さんが亡くなられました。小出義雄さんはなくなる前にいい人生だったと語っていたとニュースで読みました。良い人生とはどのようなものでしょうか?僕は生きて40数年ですからまだまだぺいぺいの若造に過ぎませんが、少し背伸びをして良い人生の意味とその生き方を考えてみたいと思います。

目次
良い人生は人に言われるものではない
良い人生を考える上で生き様という言葉がどのような意味を持つか
良い人生とはその人としての人生を生きれたか

良い人生は人に言われるものではない

良い人生とは、人にどう言われようが自分がよいと感じれればそれでよいと言うことに尽きる。つまり、自分がどのように生きていたいかをよく考えることが必要になってくる。このあたりのことは、昨年通して色々と書いてきたが一言で言うと自分の人生というものを考え、自分を生きていくということにたどり着く。ただ、この自分を生きるということがなかなか難しい。どういうことかと悩むことが多いだろう。そこで、自分を生きるための方法を箇条書きにしてみた。

  • 自分に嘘をつかない
  •   何をするにも何を言うにも自分の中で納得をすること。自分の中で嫌なら嫌、良いなら良いをはっきりさせる。行動とか言葉はそれをはっきりさせた上で選ぶ。つまり、自分の言動に責任を持つということ。

  • 不平不満を言わない
  •   相手の行動に対して不平不満を言う代わりに自分が納得する言動をすること。嫌ならば付き合うかどうかを検討することをおすすめします。

  • 後悔しない
  •   自分の言動に責任を持つことは合わせて、自分の言動によって起こったことについて後悔をしないことと同じ。

良い人生を考える上で生き様という言葉がどのような意味を持つか

良い人生を考える上で人の生き様に思いを馳せることがあると思う。そのほうがイメージしやすいから。そこでこの章では生き様について考察したいと思う。生き様とは言ってみればその人がどのように生きてきたかということにほかならない。それでは、どのように生きてきたかを考えるに当たって、もっと分解してみようと思う。人が生きる時に人生の目標が徐々にできてくると思う。そして、生きてきた中からいろいろな思いを持って、その人が作り上げてきた法則に則って人生を生きていくことになる。そうなると、人生は、「目標(自分のものだったり、社会に対するものだったり、人生のものだったりしますね。)→内在する思いがある」・「その人の生きるルール」で語ることができるのではないか。そして、生き様といった時に該当する部分は多くはその人の生きるルールのように感じる。そこからその人がどのような思いを持っていたかを考えるとそこにドラマがあり、多くの感動を呼ぶことができると思うのだ。

良い人生とはその人としての人生を生きれたか

ここから良い人生とは、自分の人生を生きていくこと、そして自分の人生を生きる場合のルールを明確にし、それに準じて生きることと結論付けることができる。しかし、これはあくまでも一つの結論であり、実はもっと多くの良い人生というものを定義できる。なぜなら、最初にも書いたが、よい人生は結局の所他人が決めるものではなく、自分が良いと思えばそれで良い人生だからだ。

このように思えば、他人にどのように言われようが、自分の人生を歩むことが区ではなくなるような気がしないだろうか。個人的には、自分の人生を歩むことを始めるとそんなにストレスを貯めることもなく生きていけるような気がするが、気のせいだろうか。

あなたはどのように感じますか?ここまでお読みいただきありがとうございます。

僕が珈琲を飲むようになった理由

僕が珈琲を飲むようになったのは、2018年4月からです。
なぜ、珈琲を飲むようになったのかといえば、もともと興味があったのですが、
難しそうということとインスタントコーヒーで十分美味しいと思っていたからです。

そんな時、電子書籍にハマりだした僕は、珈琲の本を購入しました。
その本のタイトルは、「おいしい珈琲を自宅で淹れる本」です。この本との出会いが珈琲にはまっていくスタートラインとなったのです。

本を読むうちに珈琲を豆から挽いて飲むということに興味が出てきました。読んでみると挽き具合によって味が変わるらしいとかお湯の温度で味が変わるとかドリッパーがとかいろいろ書いてあってすごく多様な味になりそうなんです。

これは飲んでみるしかないと珈琲を飲んでみることにしたのです。

まず、最初に購入したのは、ドリッパー、サーバー、ミル、フィルターです。幸いにもポットは実家に先が細い電気ケトルがあったので、それで淹れることにしました。
購入してみて思ったのですが、そんなに高くないんですよね。全部で4000円弱だったかと思います。

ここで、よくわからなかったのが豆の相場。全く感覚がない。どうしようかといろいろ物色してました。
本に書いてあるオンラインストア覗いてみたり、ネットで家の近くの焙煎屋を探してみたり。
結局豆の相場観がまったくわからない。
このあたりは、後日別の記事で豆の相場観を書いてみたいと思いますが、この時は仕事帰りにある豆屋で100g700円ぐらいのキリマンジャロを購入しました。
感想は、高い。豆って結構高い?しかも、どれぐらいの消費量かわからないからどれぐらいでなくなるのかわからない。

うーん。わからないことだらけ。。。

ま、いいかと割り切り、挽いて飲んでみて思ったこと。まず、匂いはいい。淹れるのも楽しい。味もまずまず。とスタートは好印象でした。

これから、珈琲生活が始まっていきますが、その先にはいろいろな妄想があり、試行錯誤があり、工夫がありと生活にメリハリがついてきました。

続きは、またということで。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

<最初に購入したもの>
コーヒーミル
ドリッパー(ハリオ V60)
サーバー
フィルター

良き理解者の必要性

人生には理解してくれる人が必要であると常々思っておりました。今回はそれをある映画から感じたので、書いてみたいと思います。

先日、「ボヘミアン・ラプソディ」がBlueray/DVDで出ましたね。うちにも妻が購入して来ました。4k版もありますがうちは再生する機材がないので、Bluerayぐらいでちょうど良い感じです。その映画は見た方も多いと思いますが、クィーンの。。。というかフレディのお話ですね。ライブ・エイドという1985年の募金活動の一環のライブまでのお話です。このお話の別の部分については、こちらに記載しましたので、興味があれば見ていただければと思います。ここでは、特に良き理解者の存在って大事だなぁと感じたのでどこを中心にしたいと思います。

この映画の中では、フレディーを支える女性としてメアリーという方が登場します。知っている人にとってはとても有名な方だと思います。彼女は、フレディのことを理解していたんだと映画を見て思いました。それは、異性に感じるものや夫婦に感じるもの以上の何かが合ったのではないかと思うのです。実は、このような支え合うような関係って自分たちにも存在すると思うのです。それが伴侶であったり、友人であったりはたまたビジネスパートナーであったりすると思うのです。

人生の中でこのように支援してくれる人の存在は大きく、様々な部分で良い方向に向かっていくようになっていると感じるのです。実は、自分も知らず知らずのうちに支援者になっていたりするかもしれません。

人の人生は複雑に絡み合い、人の思いがどこに向くのかということもわからないです。しかし、時として気になる存在や支えたくなる存在、支える必要を感じる存在がいることは確かです。それはなぜそう感じるのかはわかりませんが、そのようになっていると思うのです。その時に支援するかどうかは自分で選択することが可能であることも世の中面白くできているのです。

あなたは、誰に支援されていますか。また誰の支援者になっているでしょうか。今一度そのような観点で人間関係を見つめ直してみるのも良いかもしれません。

自分が何を知っているかを知ることが知識の始まり

このタイトルの言葉をどこかで聞いたことがあります。多分、どなたか哲学者の方が言った言葉でしょうか。調べてみたのですが出てきませんでした。このことについて個人的にいろいろ考察してきましたので、一度現時点の考えをこでまとめてみようと思います。

目次

  • 知識の始まりは自分が何も知らないということを知ること
  • いつまで経っても知らないことはなくならない
  • まとめ

知識の始まりは自分が何も知らないということを知ること

人間は、知らないことを知った状態になることに快感を覚える生き物だと思います。僕自身もそうですし、過去偉業をなしてきた人たちにもそうだったのではないでしょうか。つまり、知識の探求を行うことに喜びを覚えるのです。では、その最初は?

知らないということを自分自身認識することから知識の探求は始まると思うのです。なので、よく子供などがいろいろ聞いて知っていることを自慢したいのかは置いておいて「そのことは知っている」という言葉を聞くと知識の探求に蓋をしてしまっているなぁと感じるのです。僕は、自己責任主義を持っていますので、たとえ知識を得る機会を逃していたとしても何もいうことはありません。ただアドバイスとしてそこで思考が止まってしまうということはいうだけです。蓋をしてしまうとそれ以降中に入ってこないので、それまで他の観点で見た場合に新しい発見が合ったときにはそれを知ることができなくなるのです。

特に研究などを行っている人には先入観は禁物であることは知られているのではないでしょうか。刑事ドラマとかでも先入観は禁物であることはよく示唆していますよね

知らないと知ることによって、知ろうとする心が生まれて来ます。すると、不思議と今まで気づかなかったことに気づくことができるようになってくるのです。だから、知っていると思っている事柄でも一度白紙に戻してもう一度学び直すとそこからそれまでの知識以上のものが発掘できるかもしれません。そもそも、人間は日々成長する生き物ですから同じ本でも昨日読んだ時に得た知識と今日読んだ時に得た知識は同じとは限りません。

先日、見た映画でも同じように感じましたので、その時の記事を共有しておきます。コンタクトー宇宙にいる人との接触と人間の2極化ー

いつまで経っても知らないことはなくならない

知らないということをなくそうと努力しても知らないことはなくなりません。逆に言えば知識が増える分知らないことは増えていくように感じるかもしれません。それもそのはずで、物事には2面性があるからです。見える世界と見えない世界があって複雑に絡み合っています。見える世界のことを取り扱っているのは技術だったり、コミュニケーション方法などと言ったスキルと言われるもの。見えない世界のことを取り扱っているのは、スピリチュアル系の本だったり、宗教だったり。それぞれを一緒に考えることが少ないように感じておりますが、別々に物事を見ていくと不思議なことや知らないことが増えてくる感覚に陥っていくのです。

では、見える世界と見えない世界の両面から見ていけば知らないことがなくなるかと言えばそうではありません。知らないという事実を受け入れることが重要になってくるのです。そうすれば、物事の本質に近づけるようになります。ちなみにテーマが違うのであまり多くは語りませんが、見える世界と見えない世界は感情という要素を通してみると面白い世界が広がります。このことについては別の機会にお話できればと思います。

まとめ

ここまで見てきたとおり、知らないことは知識の始まりであり、死ぬまで知らないことがある。これは人間に与えられた喜びであり、死ぬまで成長を続けることが出来るということです。人生は楽しいことでいっぱいであるというのが僕がここから出した結論です。

あなたはどのように感じますか。

言葉の持つ力ーその使い方と結果の受取ー

あなたは自分が発した言葉にどのような影響が出るかを考えたことがあるでしょうか?実はそこには自己責任という隠れた責任が存在していることを知っている人はいるでしょうか?それとも当たり前すぎて考えたこともないでしょうか?今日は、言葉の持つ自己責任性について考えてみたいと思います。

  • 言葉というもの
  • 自分と他人との関係性
  • 言葉の持つ自己責任性

言葉というもの

言葉の歴史は古いですね。意思疎通を図るものとして発展してきたと考えられていると思います。人間としては生まれたときから備えられた能力の一つと考えられます。ただ、別の考えをすれば、言葉を発することを覚えると同時に何かを手放している可能性はあります。ここでは話の関係上触れませんが、人間の能力は計り知れないものと考えられます。このように古くからある言葉というものは、人間にとってとても身近に存在します。それこそ意識しなくれもそばにあるものと考えます。それ故に言葉の力を意識できない人もいると思うのです。しかし、言葉の力というものはかなり大きなものであり、自分に対しても他人に対しても影響を与えるものです。これを踏まえて他人との関係性について考えてみたいと思います。

自分と他人との関係

自分と他人との関係において重要になることの一つが言葉ではないでしょうか?コミュニケーションを図る上でも言葉というものは結構重要な部分を占めていると感じます。そしてこの言葉を使ったコミュニケーションは時にいろいろなところに影響を与え自分に帰ってくることがあるのです。それがすぐ帰ってくることもあれば時間を開けてから自分に返ってくることがあるので、それが何故に起こっているのかがわからないこともあるのです。これが言葉が影響を与えるという理由です。しかもその言葉がいいか悪いかと言うのではなくどのように他人に受け取られたかで返ってくる方法などが変わってくるから更に複雑になりわからなくなるのです。これって携帯電話の契約に似ていると思ったのは僕だけでしょうか。

このように考えると自分の発した言葉によって自分の回りの状況が作られてくるんだということが少し見えてくるのではないでしょうか?自分に起こったことに対して不平や不満などを感じているときにはこのことを頭に置いたほうがよいと思います。そして自分の中に沸き起こった感情と向き合い、どのような行動・発言をするかを熟考するのが懸命です。その後の状況が大きく変わってくるからです。あなたはどのような人生を贈りたいですか。自分がよいと思える人生に向かいたいのであれば、余計に発する言葉には語気なども含めて気をつけたほうがよいです。

言葉の持つ自己責任性

ここまで見てきたように言葉には力があります。だからこそ発する言葉を熟考する必要があるのです。自分の周りで起こっていることはもしかしたら自分が発した言葉や行動などが原因かもしれないと思えば、自分が発した言葉というものにそれなりの責任があるといえるのではないでしょうか。

そんなことを考え始めると喋ることが怖くなる人もいるでしょうが、そこは心配しなくてもよいのです。世の中で起こっている出来事はそれを受け取る人が成長するためのものと考えると自分が発した言葉をその人がどのように受け止めるかはその人次第でそこはその受け取った人の責任と言えるのです。

気をつけたいのは、自分が発した言葉で自分に何かしてもらったときです。このときは自分が発した言葉がその人にそのように受け止められたのだと受け止めなえればいけません。そして、自分の中できちんと一連の流れを受け止め今後の人生に活かすようにしなければせっかく成長のために発生した出来事でも無駄にしてしまう可能性があるのです。

成長するべきところで成長できなければその後に別の形で問題として現れ、製法の機会が与えられることは別の記事に書いたとおりです。このことから自分が発する言葉には自己責任性があると言えるのです。

まとめると、言葉を発することを臆してはいけません。積極的に良い人生に向かうことができるように言葉を選ぶことをしたほうがよいということです。と同時に受け取りの仕方も学ぶ必要があります。遠慮は不要です。積極的に受け取るべきです。

あなたは、どのように感じますか。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

価値観の多様性

先日、スターバックスが1200円の珈琲を販売するとニュースになりました。それで結構物議を醸しているそうです。1杯1200円の珈琲は高いとか色々言われているそうです。そこで今日はこれを題材にものの価値観について議論したいと思います。ものの価値観を理解することはお金を扱う上で非常に重要になってきます。

目次

  • 1200円の珈琲は高い?
  • ものの価値は人それぞれ

1200円の珈琲は高い?

あなたにとって1200円の珈琲は高いでしょうか?それとも安い?人によっては安くも高くも感じますよね。僕だったら使っている豆が良い豆であれば、出してもよいかなと思います。

例えば、サザコーヒーでは、1杯3000円するものもあるらしいです。それにはそれなりの理由があります。その3000円するコーヒーの豆を購入するのにかなりお金をかけているのです。その豆は、ある賞を受賞するほどの豆であり、それぐらいするのも納得です。そのコーヒーを飲む人は、1度でよいから受賞した豆がどのようなものかを知りたいと思い、3000円出しても飲んでも良いと思うのです。

だから、スタバで1200円のコーヒーを提供しているのはそれなりに良い豆なのだろうと思うのです。そこに価値が見いだせればそれで良くて、価値が感じられなければ飲まなければ良いのです。所謂自己責任というものです。

ネットでよく言われているようなことは飲んでいる人にとってはどうでもよくてそこに価値を見出しているということなのです。

ビジネスとは、価値を提供するものだと思います。それによりお金が流れて経済が成り立っていくものだと思います。だからこそいろいろな商売があり、ものが流通していくのです。

ものの価値は人それぞれ

人の価値観はそれぞれです。最近は特にそれを感じます。だからこそいろいろなところでものが売れたり売れなかったり、売る場所によっては高くなったり安くなったりするのです。自分ではその値段では買わないものでも他の人は買ったりしますし、自分が十分安いと思っても高いと思って買わない人もいます。これは、人がそれぞれ育ってきた環境や生活してきた地域などが違うことにも起因します。生きていくということはとてもおもしろいと感じるのはこのようなことがあるからです。

お金というものは、価値の標準化をしたものですが、人がものにどのような価値を見出すかは人それぞれであるということをここではお話しました。僕はよくものの価格について適正かどうかということを考えてみたりします。その基準は僕というよりも他のものと見比べてみてどうかを判断します。判断するときは耐久性や使い勝手も考えて総合的に判断します。そして、妥当だけど買わない判断をするときもあります。

個人的には常に価格の妥当性を見極める訓練はしておいたほうがいいのかなと思ってます。

あなたは、いかがですか?